Story.1

箕面船場団地

完成したあの頃

箕面船場団地が出来た頃

昭和45年に大阪市船場の繊維問屋街が移転して設けられた団地が、大阪船場繊維卸商団地(現コムアート・ヒル)です。
当社は昭和47年5月に、ここ船場団地に着工し、昭和48年3月に本社社屋が完成しました。社名も『富士タオル株式会社』の時代です。
以来、この地で歩んできたわけですが、時代の流れとともに団地も会社も変化してきました。現在も北大阪急行線の延伸の計画があり、様子が大きく変化していきそうです。今回は、繊維団地も当社もこの地でスタートをきった頃の様子をご紹介いたします。

周りの環境

周りの環境

周りの環境2

周りの環境3

昭和48〜50年頃の風景。繊維会社222社が活動拠点をもってた繊維団地。働く人たちにとって過ごしやすい環境となるよう、健保センターやグランド(現在は商業施設に)などの設備も整えられていました。団地内で会社対抗別の野球大会が開催されてた時もあり、その時には我が社の野球チームは連続優勝するほど活躍しました。

当時の
仕事場

当時の仕事場

当時の仕事場2

事務所、倉庫、出荷場、会議室。今と同じ場所ではありますが、やはり使われているものが違います。机にパソコンもなければ、ホワイトボードもなく黒板にチョークで書く時代でした。

当時の
展示室

当時の展示室

当時の展示室2

本社2階にある展示室。現在よりもタオル商品の取り扱い品数も多く、壁、天井とびっしりとタオルを展示してありました。

当時の
社員生活

当時の社員生活

当時の社員生活2

会社から歩いて3分の場所に寮がありました。男子・女子それぞれ別の寮が建っていました。
現在は倉庫となっている会社の4階には社員食堂があり、温かい出来立ての昼食を食べ、屋上では昼休みにバレーなどを楽しむ光景もあったそうです。当時を知る社員さんは、皆が家族のように仕事も休日も時間を過ごしていたとおっしゃってました。

当時の資料

当時の資料

昭和48年3月 本社竣工

竣工記念で発行したカタログと祝電の電報

当社が求める人材

昭和50年の会社案内で掲載された〝当社が求める人材〟

昭和50年の会社案内で掲載された
〝当社が求める人材〟

当社の意識の礎として受け継がれています。

会社案内、間取り図

団地の地図や当社を建設した時の間取り図など。
左は当社が初めて発行した会社案内。(昭和50年)

団地の地図や当社を建設した時の
間取り図など。
左は当社が初めて発行した会社案内。
(昭和50年)

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